宗教的なベジタリアン思考
・仏教とお釈迦様についての詳細
> 仏教は「どうすれば幸せになれるか」を教えてくれる、役に立つ思想だと最近にな
>ってやっと知りました。「不殺生」を説いていますが、絶対に肉を食べるな、とは言っ
>ていないのですね。仏教について私の知る範囲です。
お釈迦様の降誕される以前、当時の僧侶たち(いわゆるヒンドウー教の方々)は、供儀を名目にして動物の屠殺が行われていました。その屠殺を止めさせるためにお釈迦様が降誕された、と、ヴェーダ教典、シュリーマドヴァーガヴァタム第一巻第三章に書かれてます。お釈迦様の一番望まれたことは、屠殺という罪を止めさせることです。国には法というものがあります。
高速道路を200kmのスピードで走っていたら、きっと捕まることでしょう。私は知らなかった!スピードメーターが壊れていた!といろいろいいわけしてもはじまりません。おなじように神にも法律があります。神の法を破れば、やっぱり死んだときにエンマ様に捕まります。で、ある人はxx地獄にxヶ月、でもいいこともしたから、xx天国にx年間、いくわけですヨ。その神の法の一番大事なことの一つが、不殺生、屠殺をしないことです。私はその当時、生まれてませんし、どちらの知識を参照されたのか、わかりませんが、信者の差し出した肉をいただくというのには、疑問を感じます。
人生どんなに幸福を求めても来ないときは来ないし、どんなに気をつけても災害が来るときはくる。でも、交通ルールを守って、自分の義務(これを見定めるには、ちとたいへんですけど)を行うことが、私たちに与えられたものだと思います。僕にとって仏教は道徳的な教えは、すごく惹かれるところがあります。
でもその仏の教えに完全に従っている日本のお坊さんは、はたしてどれだけいるのでしょうか?そもそも仏の教えが、確実に伝わってきているのでしょうか> 「人として為すべき活動」とは何か?
> わたしはコレ「愛を実行すること」ではないかと思うんで
す。周囲や相手への思い
>やり、許す心、慈悲の心、奉仕などでしょうか。食べ物は、胃を満たすだけではなく、心、魂にも影響を与えます。ですからおもいやりとか慈悲の心は、肉食をしてる限り、まず無理でしょう。人としてなすべき活動、これは人生の永遠のテーマかな。
ヴェーダ教典バガヴァットギーターにはこう書かれてます。「全ての宗教を放棄し、ただ私に服従せよ。」教典の中でこう言い切るクリシュナが、私にはとても、魅力的です。そしてなすべき活動がこの教典に書かれてます。クリシュナの10の化身の一人が、お釈迦様。お釈迦様は屠殺が大嫌いです。(提供 babaさん)
・なぜ仏教僧は菜食になったのか
お釈迦様は悟りを開かれた後は「こだわりをすてなさい」と弟子達にお説きになり、もちろんご自分も実行されました。食べ物へのこだわりを捨て、供された物を選ばないということは、釈尊もたまには肉も魚も食べていらしたということなんです。これはとてもショック!でした。
こだわりすぎると人間のはたすべき義務(子孫を残したり、家族を養ったりその他いろいろ)に支障がでるかもしれない。(先日は愛にこだわって書いてみましたけど、あれは照れます) だからちょっといい加減だけれど、必要とあらば、主義を放棄する時もあっていいんじゃないか。
ということだと思うんです。それがどうして「仏教僧は菜食」になったのかというと、釈尊が亡くなられて二、三百年あとに作られた「大乗仏教」の僧が守るべき事として「菜食」が登場しました。今の日本の仏教は主に大乗の流れを引いています。
が、明治になってから僧の肉食が解禁になり、それでも肉食は止めておこうという宗派だけが精進料理を受け継いできたんですね。肉食を禁じる理由のひとつに「輪廻思想」があります。人間は死んだら次は動物に生まれ変わるかも知れない。今食べようとしている牛は、ひい爺ちゃんの生まれ変わりの可能性も有る。っていうふうな考えです。
ちょっとすごい話です。ベジになってから急に宗教に興味が出てきて調べ始めた付け焼き刃です。まちがいなど御座いましたら、どなたかお教え下さいませ。
(提供 Keikoさん)
・ちょっと教えてください
ちょっと教えて下さい。babaさんの記事のなかで---お釈迦様の降誕される以前、当時の僧侶たち(いわゆるヒンドウー教の方々)は、供儀を名目にして動物の屠殺が行われていました。
それは、生け贄のことですか?
(提供 Keikoさん)
・牛は神聖さ故に神への捧げモノ<生け贄>として屠られていた
牛の生け贄の話ですが・・・古代バラモン教において、牛は神聖さ故に神への捧げモノ<生け贄>として屠られていたそうです。
なんで牛が神聖かというと、牛には大地を掘り返す力があったからです。農業国家であるインドにおいて、牛の力は欠かすことのできないモノ。
バラモン教では牛の力を、豊穣・繁栄の魔力としてとらえたようですが、実際に牛と接して共に生きる農民には、むやみに生け贄を捧げるのは耐え難かったのです。(大規模な祭りでは幾百千もの牛が捧げられたらしい)
だいたい生け贄っていう祭り方も、インドより西方の民族の祭り方で、地元に根ざした祭りじゃないらしい。牛や羊の生け贄を捧げる民族はだいたい遊牧民ですね。
国民の大多数である農民を敵にしちゃあ、聖職者だって我が身が危険ってことで、それは影をひそめていきました。
でも祭りの捧げモノは必要な訳で、牛そのものの代わりに、乳製品を捧げる様になったそうです。(提供 真也さん)
はい、そのとおりです。当時の供儀ではよく捧げられていたようです。スピルバーグの映画のインディジョーンズでは、人間が捧げられてましたね。おそろしや。
本来の目的は、捧げた動物を若返らせること、そして、その僧侶のマントラの力をためすこと、マントラで、若返らせるなんて、僕には、想像できませんけど、当時は、可能だったようです。ですが、現代には、そんな力のある僧侶はいないと、聞いております。(提供 babaさん)
・仏教についてのお話
仏陀が肉を食べてたというのは、ショックですね。当時に戻って調べるわけにもいかず、いちばんいいのは、インドに行って調べることでしょう。どこからその情報を得たのでしょう。
日本の仏教の教典は、僕はあんまり信じてません。一時期、日本中のお寺を訪ねまわった時がありました。(うちの先輩は今でもやってます!)で、残念ながら、本当に信頼して誠実な坊さんは見当たりませんでした。まあ、ただ、出会いがなかったんでしょう。
その上、インドから中国へ、中国から日本に伝わる過程で100%正確に教典が伝わってるかというと、疑わしい。すいません。懐疑的で。なんせ、石橋を叩いて割る方なんです。昔は中国に行くだけでも大変な時代でそれこそ命懸けでしたよね。今は飛行機で10時間弱、その気があればいけます。教典によると輪廻転生は肯定されてます。いろいろ勉強されるといいと思います。たとえば、カーリー神には肉を捧げることができます。で、正確なマントラは覚えてませんけど、こういった内容です。
「あなたにこの肉を捧げます。そしてどうぞ私を来世、あなたに捧げられる動物にしてください。」それで、やっと肉にありつけます。(提供 babaさん)
・不殺生の戒
仏教の出家生活というと、深山に庵をむすび、ほそぼそと田畑を耕し、世俗と隔絶した環境で修行するといったイメージですね。しかしこれは中国や日本に伝わった仏教僧の姿でして、お釈迦様の時代の仏教のあり方とは、真っ向から違反する生活になるのだそうです。
釈尊(本名ゴータマシッダールタ)が定めた、生き物を殺さない「不殺生の戒」(戒とは戒律のこと)には、耕作労働も含まれていました。当時インドの仏教出家者は、乞食生活を大事な修行とし、作物の栽培はもちろん、生産活動は堅く禁じられていたといわれています。「不殺生は動物だけを指すのではなかった」のですね。殺してはいけないが、食べるのは許されていた。矛盾してます。
しかし人間は矛盾を抱えながら生きていくものだ、ということをおっしゃりたかったのかもしれません。中国の禅僧があえて不殺生戒に違反した生活を送ったのは、社会情勢などの理由から山中に暮らさなければならなくなり、そうなると民衆からはなれるため乞食が出来なくなったことから、自給自足の耕作勤労生活がはじまったんだろう。と、ある本に書いてありました。
不殺生を強くとなえた釈尊が肉食するわけがない。と、私も思っていましたが、釈尊当時の仏教教団では、のちの大乗仏教の出家僧のように厳格な菜食主義をとってはいなかった、というのが仏教研究者の間では定説になっているようです。
1月7日のまるまがで少しふれた輪廻思想は、もともとヒンズーの物で、釈尊の教えではありません。(釈尊も少しは語っていらっしゃいます)が、後に仏教思想にも取り込まれました。道徳観を教えたり、肉食を禁じる方便として活用されたようです。中国へ渡った時点ですでにアレンジされているのですから、現在の日本の仏教は釈尊の時代のものからは、かなり変質しているのは明白です。
私は宗教関係の書物を多数閲覧出来る環境にありますが、仏教関係だけでも膨大な数にのぼります。その中の一部に目を通しただけで語るのは間違っているのかもしれません。「真実は神のみぞ知る」という言葉がいつも頭に浮かびます。私の投稿内容は真実ではないでしょう。一般論だと思ってお読みいただければ幸いです。
(提供 Keikoさん)
・結構悩んでます
えっと、jingleさんから、次のようなメールをいただきました。
**************************新年に入ってから、にわかに宗教論(仏教論)が盛り上がっていますが、特定の宗教について突っ込んだ討論をすることは、読者全般の志向に合わないこともあるんじゃないかと・・・
「私はこう考えてます」というスタンスが「あなたの知識(ひいては、その知識に基づいてあなたが築いてきたこれまでの信念)は間違っています」というスタンスになりつつあり、疑問を感じます。
食品に関する科学的な情報(チーズにレンネット、のような)とは違い、宗教における真実ってのは各自の心の中にあって然るべきだ、と考えます。(提供 jingleさん)
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たしかにおっしゃる通りです。このメルマガは、いろんな宗教の方もご覧になっておられます。イスラム教の方、ヒンドゥー教の方、仏教の方、キリスト教の方などなど。もちろん無宗教の方もたくさんおられます。
私は「いろいろな信仰」というものに対して、あまり深く考えていなかったので、このようになってしまったのだと思います。私としては「宗教という壁も乗り越えて、ベジで手をつなごう」と思ってました(甘いかもしれませんが)。ですから、どんな信念・信条・信仰の人も尊重したいんです。
とは言っても、おっしゃるようにあまり本質的な討論になればちょっと掲載を見合わせなければいけないのかもしれませんね。でも、いただいたメールは尊重したいから、できるだけ掲載していきたいし。というハザマで結構悩んでしまいます。ううむ。