食べること

一章

 食べるということは、三大欲望(食欲・性欲・睡眠欲)という、人間以前の、動物としての根源的な欲望の一つです。
 だから食べるということは、時として人間の理性的な考え方をも食べてしまうのです。
 実際、私たちは毎日必ず食事をしています。日々、あきることなく食べなければ、干からびてしまいます。
 食べることができなければ、人はどんな犯罪でも犯してしまうこともあります。それが正しいのかどうなのか、それは今回は議論しません。でも、極限状態に達してしまえば、人は人肉をも食べてしまうのです。
 それが『生きる』という本能なのです。

 そして『食べる』ということが、生活の中で密着していくと、一つのステータスを持つようになってきます。『食べる』こと自体が、一つの人間の文化となってくるのです。
 それは、文化・文明の中で『宗教的儀礼』としてとらえられていくことになります。
 国によっていろいろな宗教があって、それに合わせていろいろな価値観があります。その価値観が一番出るところが、『食べる』ということなのです。
 イスラム教では豚肉は食べません。日本ではとても好きな人が多い『タコ』も、西洋に行けば怪物扱いです。ゴキブリを食べる民族もいれば、ヘビ(日本でもウナギを食べているが)をおいしく食べる国もあります。

 これは国という大きな枠だけでくくれるものではありません。個人によっても、とても大きな違いが出るものです。
 つまりその人の価値観が、モロに出るのも『食べる』という行為なのです。
 欲求のままにおなかいっぱいに食べる人、自然食にこだわる人、味にこだわる人。おいしそうにバクバク食べる人。恥ずかしそうにおちょぼ口で食べる人。食べるのがめんどくさくて、興味がない人。顔に出す人・出さない人。食べかた一つを見ても全然違います。
 『食べる』行為を見れば、その人の人となりや価値観、その時の心身の状況が手に取るように分かります。そのように自分自身を隠さず出てしまう。『食べる』時間を共有することは、人と人が、心を許しあう場面でもあります。

 そして、人と人に『和む』気持ちを作り出します。
 ケンカをしている恋人が、いっしょにご飯を食べたら仲直りする話を聞いたことがあります。また、会社や政治などの接待の場所は、食事です。会議でのギスギスしたところでは何も言えなかったことが、いざいっしょに食卓を囲めば、スラスラと言えるから不思議です。
 会社や政治などでの重要な取り決めごとのほとんどは、食事の席で決まってしまうと言います。

 ここまで文化が発展してきた今、『食べる』という行為は、もう三大欲望の一つとしてだけでは、説明できません。
 動物としての欲望以上に、何か人としての『食べる』という大きな意味があるのです。

 ものを食べる。それは、ものを食べているだけではないのです。その時には食べ物以外のもの、たとえば器とか色とか、それもいっしょに食べています。また、さらに大事なのが、その食卓の雰囲気です。

 雰囲気によって同じ食べ物でも、まったく味が違ってきます。
 ピクニックに行った時のおにぎりが、とってもおいしかったり、屋台の焼きそばがやたらとおいしかったり…。
 かと思えば、病気の時には、好きな食べ物もおいしくありません。

 食べる時には、その『気』もいっしょに自分の中に取り入れるのです。
 楽しかったから食事をして、腹が立ったから食事をして、ストレスがたまったから食事をして、みんなと、そしてたった一人で…。
 その食事のメニューは?食べる時の気分は?誰と食べてますか?時間はどれくらいかけましたか?

 どんな時でも『食べる』こと。それは私たちの生活の凝縮された部分なのです。
 それが人としての『食べる』という行ないではないでしょうか。

二章

 さて、このような『食べる文化』。歴史的に二つの大きな流れから見てみましょう。
 一つが狩猟を中心とした、西洋の肉食文化。
 そして、農耕を中心とした、東洋の菜食文化です。

 東洋と西洋、この二つの文化は、それぞれまったく違った、独自の流れを持っています。
 では、少し難しくなりますが、この二つの歴史を簡単に説明しましょう。

 まず西洋ですが、西洋の文化の中心は、狩猟です。矢や縄などでケモノを捕まえて、それを狩りに参加した人たちで山分けをします。
 当然、頭数が増えれば、それだけ一人に当たる食事量も少なくなりますから、多くの人と集団で生活することを好みません。
 現在の西洋文化の中で、個人のプライバシーが守られ、また個々の権限がとても大きいのは、この狩猟文化が始まりになっています。
 また、隣近所にたくさんの人がいれば、それだけケモノの数も少なくなってしまいます。そこで、自分の獲物を守らなければならなくなってくるのです。
 そのために、隣近所の人々との争いも絶えません。
 今ある戦争の始まりは、そのような狩猟の陣地争いが発端になっているのです。
 そして狩猟をするには、同じ場所に居続けるわけにはいきません。毎日毎日、場所を変え、ケモノのいるところに追いかけて行かなければならないのです。場所を変えれば、そこにはまた別の種族がいます。だから、いつも人間同士でも、争いが絶えなかったのです。

 それに対して、東洋文化は、農耕が中心でした。
 始めは野や山にある木の実や果実を取って食べるだけの生活でしたが、人は土地を自分たちで耕して、収穫する習慣を身に付けました。
 人々が組織的に手を貸し合って、水を分け合って、みんなの手を経て食を作り出しました。
 一番代表的なのが、稲作でしょう。
 今でこそ発達した農機具があり、大変広大な土地を小人数でまかなうこともできますが、当時はみんな手作業です。
 その手作業を小人数で行なうことは、とてもできるものではありません。また、小人数で行なうよりも、大勢で行なう方が、はるかに効率がよく、多くの土地を耕すことができるようになります。
 ですから東洋の民族は、より多くの人々が集いあうことによってできました。
 多くの人との共同生活。その中で大切なのは、『和』です。みんなが仲良くなること。それが共同生活の中ではもっとも大切なことだったのです。
 だから、東洋の人々は温厚な性格になりました。できるだけ、争いは避け、まるく収まるようにする気持ち。自分を犠牲にして、会社のためにがんばるお父さんの姿など、この名残でしょう。
 また、一度耕した土地は、何年も農作をすることができます。新しい土地を耕すには、とても大きな労力が必要です。ですから、東洋の文化は定住することによって、発達してきたのです。

 このように、東洋と西洋はまったく逆の性格をもった文化の進みかたをしてきたのです。
 小人数と共同生活、争いと温厚、放浪と定住。

 この文化の中でも中心となっているのが、お互い『食べる』ということです。『食べる』ために西洋では争い、東洋では和を求めた。それは二つの文化の決定的な違いでもあります。
 その食を得る方法によってだけから、文化・資質の違いが生じたのではありません。

 考えたいのは、東洋と西洋の『食べる』ものの大きな違いです。。
 東洋は菜食。西洋は肉食。
 これが、人の心を築き上げた、とても大きな要素となっているのです。

 また、食べる時の作法も大きく左右しています。
 たとえば、東洋の箸と西洋のナイフ&フォークを見比べてみてください。
 箸で食べ物をつかむには、繊細で細やかな神経が必要になってきます。まったく動かない植物を繊細な作法で一つずつ、かみ締めるようにいただくのが、東洋です。
 かたやナイフ・フォークでは、肉をフォークで押さえ、ナイフで引き千切りながら食べます。
 食べかたの中にも、動物と植物の違いが大きく出ています。

 菜食は人を温厚に、肉食は人を狂暴にしていきます。

 そして肉食というのは、生きている動物を食べることです。動物を食べるのですから、食べられる動物は当然殺されてしまいます。そして、人の体の中に入ってしまう。
 この時、肉を食べるのと同時に、他のものもたくさん食べているのです。
 それが
「ああ、殺された。苦しい」
と思う動物の念なのです。
 そして同時に、その動物が背負っている『罪業』もいっしょに食べていることになるのです。
 だから、動物の持っている闘争本能の部分も食べてしまうから、どうしても狂暴な性格になってしまうのです。

 それとは逆に、菜食は植物を食べます。植物にも生命はあります。しかし、感情は持ち合わせておりません。持っているのは『精』と呼ばれるエネルギーのようなものです。
 野菜を体に入れる。その時に、野菜以外にその『精』もいっしょに体の中に取り入れているのです。
 『精』は、エネルギーであると同時に、人に与えられる精神的な質でもあるのです。
 だから菜食をすればするほど、精神的な質が高まっていくのです。

 この食べかたをすれば、東洋はより温厚に、また西洋は豪快になっていくのがお分かりだと思います。

三章

 日本人の腸は、西洋人と比べてかなり長くできています。これは、日本人がもともと菜食人種であり、植物を消化するためには、どうしても腸が長くならなければならなかったからです。
 日本に肉食の習慣が来てから、まだ百年あまりしか経っていません。ですから、あまりの急激な食変化についていけず、多くの病気を併発してしまっています。
 肉食独特の病気が日本人の中にも蔓延しはじめたのは、ごく最近のことです。

 しかし今、自然食ブームに乗って、再びベジタリアンのあり方が見直されてきています。
 あのマイケル・ジャクソンもマドンナもベジタリアンです。

 何も、ベジタリアンでなければならない、というのではないのです。
 でも今多くの人が菜食生活を選んで実践しています。
 もし、温厚な性格になり、精神的な向上を求めるのであれば、一日のうちの一食でも菜食のみにしてみるのはどうでしょうか。

 もしそれも無理なら、一回だけでも、菜食を試してみませんか。
 少し物足りないかも知れません。しかし、何かの発見があるでしょう。さわやかな気持ちがするかも知れません。体が軽く感じるかも知れません。心が澄んでくるかも知れません。

 普段食べる時は、食べた牛や魚のことを思い出してみてください。